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真実の神とはどのようなものか?

大半の人は神の概念を誤って解釈している

以前、多くの人がイメージする“神様”とは「人が困ったときに助けてくれる存在」または「人間の夢や願いを叶えてくれる存在」とお話しました。

 

しかし実は“神様”とは、そのような人間の夢を叶えたり、人間の願いを叶えるだけの都合のいい存在ではないのです。

 

ですから“神様”に対して「大学に受かりますように!」とか「宝くじの一等が当たりますように!」とか「素晴らしい結婚相手が見つかりますように!」などの祈りは見当違いなのです。

 

なぜ、多くの人々は“神様”に対して必死でお願いしたり、必死でお祈りしても願いが叶えられないのでしょうか?

 

その理由は、多くの人がお願いする内容は、自分の利益になるための内容であり「自己中心的」な動機からお祈りしているからです。

 

このように自分だけに利益をもたらすような「利己的」な願いは決して聞き届けられることはありません。

 

“神様”への祈りは他人の幸せを願ったり、自己犠牲を伴うような「利他的」な祈りしか聞き届けられることはないのです。

 

なぜそのような「利己的」な願いは叶えられなくて「利他的」な願いが叶うかというと、この宇宙はそのような法則で運行されいるからです。そして“神”とはその法則を創った存在であり、その法則を変えることはできないからです。

 

わかりやすく言うと“神”は摂理(宇宙の法則)そのものであり、その摂理に従って行動をすれば物事がスムーズに進みますが、摂理に反した行動を行うと困難や苦難の道を歩くことになります。

 

つまり、自分の夢や願いを叶えたいと考えるのならば、摂理に従った生き方をすればいいということです。法則に従った行動をすれば、人生は自分の願いどおりに歩むことができます。

 

神は人間的な存在ではない

“神”とはどのような存在なのかというと、この宇宙や生命を創造した唯一最高の存在で、全知全能であり完全完璧であり絶対無限の存在です。

 

そもそも“神”を人間の言葉で表現することは不可能であり、人間の言葉では「神」の一部分しか表現することはできません。

 

なぜかというと“神”とは完全完璧な存在であるがゆえに、不完全で有限の存在である人間には、とうてい“神”のすべてを理解することは不可能なのです。

 

“神”とは人間をはるかに超越した存在であり、人間がどれほど努力して頑張っても“神”になることはできません。

 

考えてみればわかると思いますが、森羅万象(宇宙に存在する一切のもの)を創造した存在が“神”(創造主)なのです。

 

太陽や月や地球と同じものを人間が創れるでしょうか?

 

春になると花が咲くチューリップの球根と同じものを、人間が一から創れるでしょうか?

 

魚や鳥や動物と同じような生命体を、人間が一から創れるのでしょうか?

 

そのような森羅万象のことを人間は「自然」と呼びますが、その「自然」を創造した存在が“神”であり、「自然」を人間が一から創造することは不可能です。

 

その森羅万象を創造した存在の“神”が、いかに偉大であり人間を超越した存在であるかがわかると思います。なにしろ人間をも創造した存在が“神”なのですから。

 

この時点で「森羅万象を創ったのは神ではなく偶然できたのだ」と考える方は、第一章の「人間の存在について」から、もう一度お読みください。

 

“神”(創造主)の存在の証拠なら、この世界にいくらでも存在します。

 

たとえば、最新型の高性能カメラレンズと人間の眼球は、どちらの科学技術が優れていると思いますか?

 

これは疑う余地もなく、人間の眼球の方が高性能というのがわかります。

 

そのような高性能でハイテクノロジーな人間の眼球が、たまたま偶然に存在するものでしょうか?

 

もし仮に、高性能でハイテクノロジーな人間の眼球が偶然にできたとするなら、そんな偶然の産物である眼球を、人間の科学技術で作れないのはなぜでしょうか?

 

それは、人間の眼球などが偶然にできたのではないことを意味しています。

 

ここまで“神”についていろいろお話してきましたが、真実の神の概念というものをすべて言葉で語ることはできません。

 

しかし、ほんのわずかでも“神”の概念を知り、理解を深め、真理を探求することができたのなら、摂理に従った人生を歩み、進歩向上の道を歩んでいることになるのです。

 

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